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“あみだ池”からたどる堀江の歴史

 300年の歴史を持つ町、堀江。交通・輸送の手段としての堀割が作られ、信仰と娯楽の場としての和光寺が建てられ、さまざまな興行が集まってきたことで、江戸時代の堀江はエンタテインメントの拠点として、大いに賑わいました。時代とともに町の風景は大きく変わっていきましたが、古くから“あみだ池さん”と呼ばれ親しまれた和光寺は堀江の地に変わらずあって、町の変化を見つめ続けています。“あみだ池”から堀江の町の歴史をたどってみることは、この町のリズムを複層的にとらえなおすための大事なきっかけを与えてくれるのです。

様々なエンタテインメントは お寺から発信されました。

 堀江はもともと、大坂の中でもっとも開発の遅れた低湿地でした。北は長堀、東は西横堀、南は道頓堀、西は木津川に囲まれたこの地域の外形は、徳川時代になってすぐの頃に形作られましたが、町ができたのは堀川沿いだけで、中央部は畑や空き地だったそうです。この地域が急速に発展をはじめるのは元禄11年(1698)。河村瑞賢が地域の中央部に堀江川を開削して堀江新地を開発し、1800坪もの敷地をもつ和光寺が建立されたことがきっかけになっています。和光寺の境内には“あみだ池”があります。

「浪花のながめ」和光寺

銅造阿弥陀三尊立像
(和光寺蔵)
 6世紀、欽明天皇の代に百済から献呈され、廃仏派により棄てられた阿弥陀如来を信濃国の本田善光がこの池から救い出し、信州へお連れして長野の善光寺に祀ったことがその名の起源です。そして智善上人は「この場所こそ善光寺如来の出現の地」であると、和光寺を建立しました。和光寺には大きな池があり、池の中央に作られた浮御堂に阿弥陀如来をまつっていたため、その後“あみだ池さん”の名で親しまれ、庶民の幅広い信仰を集めていきました。

 堀江の開発にかけた資金を回収するため、幕府は船の営業権の許可や市場の開設など、商いを起こしやすいようにさまざまな優遇策を打ち出していきました。諸国からの材木を扱う材木業が立地したことで、長堀川の河岸は“材木浜”と呼ばれるほどになり、江戸末期には家具・仏具・欄間の製造などの関連産業も立ち上がりました。
 江戸時代には、お寺への参詣は町人たちのレジャーでした。無数の娯楽が氾濫している現代とは違い、この時代の娯楽は本当に限られていたので、当時の人々にとってお寺に行くことは、信仰心を満たすことはもちろん、余暇を楽しみ、癒しも得られる貴重な機会となっていました。集客施設も少なかった当時、人がたくさん集まる場所と言えばお寺の境内だったのです。
 お寺の側も、たくさんの人に来てもらおうと、様々な工夫を凝らしていました。開発後の和光寺の境内とその周辺には演芸場や遊技場、見世物小屋や物売りの店が並び、富くじの興行や植木市も有名になりました。今でいえば、お寺の境内は人々が憩う公園で、演芸場は劇場、見世物を展示する小屋は博物館・美術館のようなものでした。和光寺は、エンタテインメントの拠点になっていったのです。

堀江から生まれた娯楽。 大坂相撲もそのひとつ。


「金龍山浅草寺奉額縮図」
陣幕久五郎(部分)
(財)日本相撲協会相撲博物館蔵
 エンタテインメントといえば、堀江は「大坂相撲」の発祥の地でもあります。
 近世になると相撲見物が一般の人々の娯楽として広まりましたが、観客同士の喧嘩や口論が絶えなかったため、寺社への寄進を名目とした勧進相撲以外は幕府により禁止されていました。「勧進」という言葉は、人々に仏の道を勧めて善の道に向かわせることですが、一般にはお寺や仏像の建立や修復のため、人々に勧めて寄付を募るという意味で使われていました。当時相撲はたいへん人気のあるイベントだったので、興行の収入によって修復費用などに充てていたのです。

 大阪の相撲興行は、新地開発のための勧進興行としてスタートしています。堀江新地の開発は幕府主導により行なわれましたが、開発にあたって入札が実施され、高い値をつけた者に土地が割り渡されました。堀江町人たちは、地代の確保と新地の繁栄のために相撲興行の開催を幕府に出願し、元禄15年(1702)、堀江橘通三丁目(現在の南堀江公園付近)において大阪初の相撲興行を実施しました。
 13日間の興行で300両の地代銀を上納したということですから、新地のディベロッパーとなった商人たちにとって、この興行はまたとない打出の小槌になったようです。
 それ以後、さまざまな力士や商人らが勧進元となって全国の力士を大坂へ招き、お寺や神社の境内で試合を行うようになりました。堀江は当時、日本の相撲の中心地だったのです。その後、明和2年(1765)に難波新地での勧進相撲も許可され、相撲興行はその二ヶ所で交互に開催されるようになりました。大坂相撲は大坂商人の後援を背景に、江戸相撲をしのぐ隆盛を誇りましたが、18世紀末になると、毎年冬と春に江戸、夏前後に大坂と京都で周期的に開催されるのが恒例となり、やがて有力力士が江戸に流出したことで、幕末には江戸相撲に大きく水をあけられるようなっていきました。
 堀江川の北側、堀江新地開発にあたって、幕府は相撲だけでなく、能・文楽の興行や、待合茶屋の営業も許可し、芝居では豊竹此太夫らが人形浄瑠璃を堀江で演じるなど、道頓堀の芝居街に負けない賑わいを見せていました。さらに待合茶屋が許可されたことにより、遊郭として新町遊郭に匹敵する賑わいを見せ、様々な人形浄瑠璃や浮世草子など小説の舞台となっています。

川が道路に、舟が鉄道に。 堀江の風景が変わります。

 堀江エリアの北東角、長堀川と西横堀川の交わるところには、吉野屋橋、炭屋橋、上繋橋、下繋橋の四つの橋が「井」の字の形に架けられていました。300年前の俳人・小西来山はこの場所で「すずしさに 四ツ橋を四つ わたりけり」という句を残しています。川の上を走る風の心地良さに橋を四つ渡ると、もとの場所に戻ってしまったという、のどかな風景がそこにはありました。

四ツ橋(明治時代) 
出典「ふるさと想い出写真集
明治大正昭和 大阪(下)」国書刊行会
 

四ツ橋(昭和初期) 
出典「ふるさと想い出写真集
明治大正昭和 大阪(下)」国書刊行会

四ツ橋(現在) 
 

 20世紀に入ると、舟運に代わる交通手段として鉄道が登場します。堀江周辺は四ツ橋筋を走る市電南北線、長堀沿いに走る東西線が交差し、道頓堀の対岸には関西鉄道の湊町駅、高野鉄道の汐見橋駅が開設されました。交通の便に恵まれた堀江は、多くの市民が住み働く地域として、また茶屋や芝居小屋、劇場や寄席などの娯楽を楽しむ地域として、繁栄を続けました。
 大阪大空襲により堀江の町は灰燼に帰してしまいますが、材木業や家具販売業、堀江新地などが復興し、高度成長期には立花通りは家具屋街として空前の繁栄を見るまでになります。一方でこの時期、水運から陸上交通へのシフトが進み、堀江の町の風景は大きく変わっていきました。昭和35年(1960)には堀江川、昭和39年(1964)には長堀川、そして昭和46年(1971)には西横堀川が埋め立てられ、道路に姿を変えました。材木業は郊外へと移転し、遊郭は廃止され雑居ビルや駐車場に変わり、家具屋街は市民の郊外への転居、郊外の大型家具店の登場により、徐々に人通りの少ない町になっていきました。
近年、堀江には新たな賑わいが生まれています。1990年代後半から立花通り周辺にカフェ・ギャラリー・雑貨店が開業し、相次いで東京から大型セレクトショップが進出し、家具屋の中にも若者向けのインテリアショップに業態を変えるところが出てきました。SOHOや小規模事務所なども増え、デザイナー・クリエイターの拠点としても機能し始めています。

 空襲で本堂・諸堂を焼失した和光寺は、昭和22年(1947)には仮本堂が建てられ、昭和36年(1961)に木材業界などの尽力と浄財を得て、本堂が再建されました。かつて阿弥陀如来が救い出された“あみだ池”も、水の都として繁栄したこの町の文脈、水脈を引き継いでそこにあります。
 町の歴史を知ることは、見えなくなりつつある町の輪郭を浮かび上がらせる作業です。堀江の町が持っているリズムをポリフォニーとして聴いてみるために、“あみだ池”に足を運んでみてはいかがでしょう?


2007年11月29日
(大阪ブランドセンター 山納 洋)


*この文章は堀江まちづくり委員会発行「horie bon!」にも同時掲載されています。