安藤忠雄写真 安藤忠雄さん
スピーチ
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こんにちは。安藤忠雄です。議長というのも、なんか変な感じですか。

大阪というのは、私にとって非常に重要な場所だと思っています。私は大阪生まれの大阪育ちですから、基本的に阪神間でほとんどの仕事をしてきました。ですから、東京から大阪に帰ってくるといつもほっとするわけです。その大阪が、非常に元気がないと思っています。私は大阪で10代の頃、ちょうど中学校の2年生ぐらいに、建築のことを考え出しました。隣の大工さんと一緒に、自分の家の増築を手伝ったのが最初で、建築というのはおもしろいものだと思いました。それで、大学の教育を受けたいと思ったのですけれども、ひとつには自分の家の経済的な理由がありました。大阪大学に行きたい、京都大学に行きたいと思ったのですが、自分の学力では難しいいうこともよく分かりまして、両方とも断念いたしました。けれども、大阪は全く学歴のない人間、社会基盤のない人間でも、拾い上げてくれる街でありました。

20代から仕事を始めて、20坪か25坪ぐらいの小さい家の建築を任せてくれた人がいて、そういう勇気のある人がいたと思います。それから自分なりにひとつずつ仕事を通して勉強して、20代の後半から30代にかけて、たくさんの経済界の人たちにお世話になりました。関西経済連合会の宇野収さんやサントリーの佐治敬三さんなどの方々です。佐治さんは「お前みたいな学歴のないやつでも、ここでは生きていけるからがんばれよ」と言っておられました。そういう街であったということに、自分は勇気づけられて仕事ができたんだと思っています。その大阪が元気がないと思っています。

1996年に東京大学に呼ばれたときに、いろいろの経済界の人たちに話を聞きましたら、大阪から通うのならばいいと。公務員というのは、だいたい通うのが難しいのですが、大阪から通うのならばと、強引に文部大臣を説得しました。佐治さんや宇野さん、朝比奈隆さんなど、みんなから「お前は大阪でしか仕事ができないのに。学問しかしたことのないような知識ばっかりの東京大学に、知識はないけれどもちょっとだけ建築できるやつが行ってどないすんねん」と言われました。まあ、そうかなとも思いましたけど、その人たちに支えられて、私はがんばってやってこられましたから、大阪を元気にすることをサポートできるならばやってみたいと思っています。

実は私は今、外国でも仕事をしておりまして、アメリカに7カ所くらいの工事がありまして、ヨーロッパに5つくらい、中国、インド、台湾、青島のあたりなど、外国には15カ所あるけれども、大阪には2カ所しかない。東京には10カ所くらいある。これはどういうとかと思いながら、毎週、東京に2回通っているわけです。その理由のひとつには大阪に人が来ない。人が来ない理由はいろいろあると思います。2年ほど前に、タクシーに乗った東京の人が、たぶん梅田くらいから大阪市役所と言ったのだろうと思うのですけれども、運転手の人に「そこやん、見えとるやないか!」と怒られたというのです。で、「安藤さん、大阪は怖いところですね。」とかなんとか言われました。私は「お前、そんなことも知らんのか」と言ったら、「あ、やっぱりね。」と言われてしまいました。当時、そういうことが一般化しているので、知事さんに大阪をもっと楽しくタクシーに乗れる街にしたいと、若い人や身障者の人たち、高齢者の人たちが、ワンメーターでも自由に乗れるように会議をしていただけませんかという話をしたら、観光会社とタクシー会社と呼んでいただきまして、ワンメーターOKの会を開いていただきました。で、今では、新大阪の駅とかあちこちで短距離OKとなっていますし、車にもステッカーが貼ってあります。あれは知事さんがやろうと言っていただいて、すぐにスタートしました。大阪には、そういう実行力のあるところ、「これすぐにやってみよう」というところがたくさんあります。

そして、大阪には「何でも受け入れてやってみよう」というところがないといけないと思います。先ほどお話をされた寺田千代乃さんのように、女性でがんばっておられて、同友会をひっぱっておられるような人たちもいる。また、それを支える街でもあるということを考えると、みんながもう少ししっかりしないといけないと思います。今までは、国がやってくれる、府がやってくれる、市がやってくれると言っておりましたけれども、そろそろ明治、大正、昭和の頃のように、自分たちが自分たちの街のことをやってきたということを思い出して、自分たちも積極的に参加していかないといけないのではないかというようなことを考えましたので、ちょっとスライドを見てください。
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