中村雁次郎さん写真 中村雁次郎さん
スピーチ
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私は日本の伝統芸術に造詣の深い武智鉄二先生に出会いました。その方は、若い俳優を素晴らしい先生に師事させていい俳優を育てようとして若手歌舞伎というものをつくりました。私がそこに参加したのは高校三年生のときでした。当時、私は若手歌舞伎の中では扇雀という名前でしたが、私が一番ヘタだったらしく、扇雀を少しでも形のある俳優にしようと、台詞は、当時の名人豊竹山城小掾(とよたけやましろのしょうじょう)古靭太夫(こうつぼだゆう)さんにマンツーマンで教えていただき、踊りは先代の井上八千代先生、お能は『道成寺』の乱拍子で日本一の桜間道雄先生に教えていただきました。そのような先生方に出会えた私はたいへん幸運でした。そして、私は自らの歌舞伎のスタイルをつくりあげてきました。これが上方歌舞伎だと思います。

それでは、どのような稽古をしたのか、その一例をご紹介します。
お能の稽古では、武智鉄二先生のご依頼をお受けになった桜間道雄先生が私の家に来てくださいました。お能の稽古というから、お能をするのだと思っていましたら、畳の黒い筋の上に立ち、その筋に沿って歩くようにおっしゃいましたので、私は1時間くらいひたすら歩きました。そのような稽古が半年続きました。半年後、桜間先生は明日からもう来ないとおっしゃいました。私は思わず「先生、待ってください。今帰られたら、歩く稽古だけで終わりましたなどと、世間に対して恥ずかしいではないですか。なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか。」と言いましたら、「私はあなたに、最初からお能を教えるつもりで来ていませんよ。確かに、武智先生はお能の稽古とおっしゃいましたが、武智先生からは、あなたの歩く腰が揺れないようにしてほしいということだけを頼まれました。腰が揺れないように歩けさえすれば、どのような役でもきちんと舞台できれいに歩けるはずです。だから、私の役目はもう終わりました。」とおっしゃいました。歌舞伎というのは基礎が不可欠です。私は、基礎をしっかりと身につけながら歌舞伎の稽古を積むことを素晴らしい先生方に教わってきました。

先ほどの歌舞伎紹介ビデオにあった『曽根崎心中』。近松門左衛門が人形浄瑠璃の作品として書いたものです。私が『曽根崎心中』を初めて演じたのが53年前になります。元禄の頃、初演を含めて数回で公演が禁止されて以来、実に250年ぶりに私がお初を演じたのです。当時歌舞伎として公演されたときは、宇野信夫先生が脚色して演出なさいました。文楽でも250年演じられていませんでした。250年ぶりに『曽根崎心中』は生き返ったわけです。では、なぜ250年も演じられなかったのか。理由のひとつに、演出の中で、お初役の女形が相手役に足を使って心中の決心をせまる場面があり、この作品が隆盛した時代は封建社会で、男が女より身分が数段上にありましたから、女が男に足を出すなどあってはいけないという風潮があったのだと思います。

ですから、53年前が『曽根崎心中』の初演といえるのです。幸か不幸か、あれから53年演じましたが、私以外に未だ誰もお初を演じていません。私とお初はずっと一緒に人生を歩んでいるような形になりました。

私が演じる歌舞伎『曽根崎心中』は、近松門左衛門の原作をよみがえらせた作品になりますが、面白いことに最近まで、文楽でもまったく演じられていませんでした。上方歌舞伎で私たちが『曽根崎心中』を再演し、評判をいただいたものですから、2年後には文楽でも『曽根崎心中』が演じられました。

しかし、文楽で『曽根崎心中』を演じようとしたとき問題が起こりました。なぜなら、文楽の人形の裾を引いた女形に足はないからです。足を出すことについてはたいへんもめたようですが、原作に描写がある以上、足を使って心中をせまる場面を実現したいと吉田玉男さんが訴えられたそうです。こうして、文楽史上初めて、女形の足が出てきたそうです。現在も『曽根崎心中』のお初に限って足が出てくるのです。

では、私が歌舞伎で初めてお初を演じるときはどうだったかと言うと、舞台稽古まで、実は私自身も足でやるか迷っていました。最初から足でとは決めていませんでしたが、私は常日頃から自分のひとつの芸をつくるという気持ちで歌舞伎をやっていますので、きっと原作どおり足でやりたいと言ったのだと思います。上方歌舞伎の真髄とは、自分が一生懸命になって、その役になりきることだと思います。それが大きな上方歌舞伎の力であり技量だと思います。

最後になりましたが、次の時代の上方歌舞伎を担う人材をつくろうと、関西経済連合会の秋山会長をはじめ、たくさんの大阪の皆様方のお力で素晴らしい応援団「なにわ華の会」ができました。歌舞伎はひとりではできません。やはり応援してくださる皆様方がいないといけません。お客様が俳優を育ててくださればこそ、芸が生まれ育ちます。坂田藤十郎という名前を継がせていただいて、今後も上方歌舞伎の隆盛ということに生涯をかけて取り組んでいきたいと思っています。

お時間がまいりましたのでこれで失礼いたしますが、ご清聴誠にありがとうございました。

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