中村雁次郎さん写真 中村雁次郎さん
スピーチ
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231年ぶりに坂田藤十郎を襲名し、昨年末から京都の南座、東京の歌舞伎座と各地をまわり、一昨日までは大阪で襲名披露公演をしていました。私にとって、大阪は大切な場所。お客様の拍手にも一層の温かさを感じました。

歌舞伎というものは、各人の演技がそれぞれの歌舞伎を作り出しますから、俳優の数だけの演出があるのですが、大きく分けますと、江戸歌舞伎と上方歌舞伎の2つの演出があります。最近は江戸歌舞伎の演出が多いのが残念ですね。

例えば、一昨日まで公演していました『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』。これは、団七九郎兵衛という若い侠客が春に牢から出所し、その夏に自分の舅を殺す事件を起こす物語です。

しかし、同じ物語でも上方歌舞伎と江戸歌舞伎では演出が異なるのです。
江戸歌舞伎ではこの物語の舞台は夏から始まり、団七はスッキリとしたゆかた姿で登場し、非の打ち所のない男で演じられています。俳優を見せることに重点が置かれているため、物語を変更しているのです。一方、上方歌舞伎では、物語どおり春から始まるため、団七は厚手の着物に身を包み、恩人のために命を投げ出す非常に人間的に生きる男を演じています。俳優よりも、物語を見せることに重点を置いているわけです。

一昨日までの公演では、私も原作どおり演じました。大阪のお客様からは「物語の展開がよく分かった」という感想をいただきました。

上方歌舞伎と江戸歌舞伎の違いはそれだけではありません。家や形を重んじる江戸に対して、上方では芸の実力を重んじます。

このたび、私が継がせていただいた坂田藤十郎の初代は「身ぶりは心のあまりにして」ということを大事にしていました。身ぶりというのはしぐさ。しぐさというものは心から出てくるもの。それを大事にすればよいのであって、勝手に自分でいい格好をしようとしても、その役にはなれないということです。

私は、それが上方歌舞伎のひとつの大きなあり方だと信じています。上方歌舞伎界に坂田藤十郎の名が231年間も襲名されなかったのはその証拠ではないでしょうか。坂田藤十郎は、名よりも芸を大切にしました。初代坂田藤十郎には歌舞伎俳優の実子がいましたが、父ほどの芸ができなかったそうなので、坂田藤十郎の名を襲名させなかったそうです。ですから、初代は坂田藤十郎の和事の芸を生き写しのように演じた大和山甚左衛門に、「名は継がなくてもいいが、私の大事な芸をあげたい。しかし、芸をやるわけにはいかないから、私が大事にしている着物をやろう。舞台で自分が身につけていた物をお前にやろう。」と言ったそうです。つまり、自分の名ではなく心を譲ろうとしたのです。ですから、上方歌舞伎の流れは、名優でも何十代と続くものはほとんどありません。

私の祖父である初代中村鴈治郎が亡くなるときに、「中村鴈治郎は私の代だけにしておいてくれ」と言ったそうです。やはり、坂田藤十郎を崇拝していたのでしょう。その遺志を継いで、私の父も祖父亡きあと十何年も中村鴈治郎を襲名していません。おそらく「名前ではなく芸を継ぐ」という上方歌舞伎の一つの大きな特長を物語っているように思います。父がそうだったように、私もそういう精神や芸を大事にしようと考えています。芸は親から子へすぐには移さないのです。私も父から芸を一度も習ったことがありません。他にももっと素晴らしい師匠に習えばいいということなのでしょうか。私は、台詞の発声は文楽の義太夫から習いましたし、「女形のしな」は日本舞踊を通じて習いました。

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